百済の歴史と世界遺産をたどる旅~韓国・百済歴史遺跡地区
 吉村剛史(トム・ハングル)
 2017/12/21 改:2019/08/14 

日本とも交流が深かったとされる古代の国、百済(くだら、ペクチェ)。ソウルの漢江流域や、韓国中西部を中心には遺跡が残っており、現在も文化財として保存されています。

公州・扶余、益山にある遺跡群である「百済歴史遺跡地区」は、2015年にユネスコ世界文化遺産に登録されました。韓国の世界文化遺産は2014年6月の南漢山城が登録されて以来で、これで合計12カ所目となります。

この記事では百済の歴史の略説をお伝えするとともに、世界遺産となった韓国・百済歴史遺跡地区を実際に訪れてみたい方へ、主要なみどころをまとめています。

日本とも関係が深かった百済の歴史

神話上では紀元前18年に成立されたとされる百済(ペクチェ、백제)。高句麗の王、朱蒙の三男にあたる温祚(オンジョ、온조)が、河南慰礼城(漢城)に都を定めたとされ、これはソウルにある風納土城や夢村土城ではないかと推測されています。


[ソウル・夢村土城(オリンピック公園内)]

百済という国の存在が広く知られるようになったのは、4世紀半ば、近肖古王(근초고왕、クンチョゴワン)の時代だったといわれています(在位:346~375年)。この王の名前は、韓国の歴史ドラマ「百済の王 クンチョゴワン」でも知られています。


[ドラマ・クンチョゴワン(近肖古王)]

高句麗が勢力を拡大して、南へと進出。475年に漢城を陥落させると、476年には熊津(現・公州)に都を移し、その後538年には泗沘(現・扶余)に遷都します。

ちなみに百済は、日本では「くだら」と呼ばれていました。韓国語で「大きな国」の意味をもつ’큰 나라(クンナラ)’が訛ったものではないかといわれています。

当時、高句麗、新羅、百済の三国が朝鮮半島で勢力を争っている時代でしたが、日本に仏教が伝わったのも百済を通してのことでした(538年説)。

百済は日本との関係が特に深かったことでも知られています。滋賀には百済寺がありますし、大阪には「百済」という地名が残っていることも関係しているといえます。もちろん日本には高句麗や新羅と関係する遺跡もあります。

●百済の滅亡の歴史
朝鮮半島における三国時代の末期。戦乱が続く中で、660年の黄山伐(ファンサンボル、황산벌)の戦い(※現・忠清南道論山市)では新羅と唐の連合軍が勝利をおさめ、とうとう百済が滅亡へと追い込まれます。

ここで軍を率いたのが百済の名将、階伯(ケベク)将軍。彼はこの戦いにより戦死しています。新羅の金庾信(キム・ユシン)将軍が彼のライバルです。


[ドラマ・階伯(ケベク)]

その後、百済の遺民たちが抵抗した663年の白村江(はくすきのえ)の戦いでは、倭(当時の日本)からも援軍を送ります。しかしながら唐・新羅連合軍は、最終的に百済(ペクチェ)を破りました。この事実は日本史の教科書にも出てくるのでご存知の方も多いでしょう。

以上を整理すると、熊津(現・公州)に都を置いた時代が475年~538年、泗沘(現・扶余)の時代が538~660年となります。これらの時代の遺跡が、世界文化遺産に登録されているのです。

百済の遺跡・世界遺産として登録されたのは?

百済の遺跡で世界文化遺産に登録されたのは計8か所。忠清南道・公州は、公山城、宋山里古墳群の2カ所。扶余では官北里遺跡・扶蘇山城、陵山里古墳群、定林寺跡、扶余羅城の4カ所、そして全羅北道・益山では王宮里遺跡、弥勒寺跡の2カ所、計8カ所となっています。

ちなみに2015年に百済歴史遺跡地区が世界文化遺産に登録されたことにより、当時勢力を争っていた3国の遺産がすべて世界遺産となりました。慶州にある新羅の遺跡地、そして現在北朝鮮の開城にある高句麗の遺跡地もまた世界遺産です。

次に百済の世界遺産をたどるため、公州・扶余・益山それぞれにある遺跡地を整理し、世界遺産を巡るためにアクセスの情報とともにお伝えしたいと思います。

百済歴史遺跡地区へのアクセス

百済歴史遺跡地区の世界遺産を個人でめぐるには、高速バスでの移動がおすすめ。ソウル・江南エリアにある高速ターミナルから行くならば、公州までは約1時間30分、扶余までは約2時間10分です。

ちなみに公州~扶余の移動は市外バスで約50分かかります。この2つの街だけに行くのであれば朝早めに出発し、午前は公州、午後には扶余という移動プランも可能です。

ただし公州・扶余から益山への移動は、少々不便なところがあります。公州市内から約25キロ離れたKTX公州駅へ行き(市内バスまたはタクシー利用)、そこから高速鉄道KTXで約16分。近いといえば近いので、行けないこともないのですが・・・。

益山まで直接行くならば、ソウル・龍山駅から高速鉄道KTXが便利。約1時間で到着します。公州・扶余・益山の主要な場所を急ぎ足で回るなら、最低でもソウルから1泊2日の日程を確保しておきましょう。

公州にある百済の世界遺産

公州の世界遺産は、健脚の方であれば公州バスターミナルから歩いて巡ることができます。バスターミナルからは、歩いて約20分強です。

●公山城(공산성、コンサンソン)
高句麗の進出により漢城が陥落し、熊津へ遷都。熊津(ウンジン、웅진)時代(476年~538年)に築城されたのは、熊津城というお城。のちに公山城という名前に改称されます。当初は土城で、朝鮮時代に石城になりました。


[公山城]

一周は約2.6キロ。城壁を歩いていくと、錦江(금강)を見渡せます。心地よい風に当たりながら、ゆっくり歩いてみましょう。個人で訪れる場合には、いちど観光案内所に立ち寄り、パスポートを預けて、携帯端末のプレイヤーを聞きながら歩くとより理解が深まります。

公山城
入場料:1,200ウォン
営業時間:9:00~18:00
公州市公式ページ(韓国語)

●宋山里古墳
公山城からさらに歩いて15分ほどのところには、宋山里古墳群があります。ここには百済25代王の王陵である武寧王陵があります。王族の古墳の7つのなかでも、墓に入っている人が分かっているのは武寧王だけです。


[中央の木の下にあるのが武寧王陵]

523年の武寧王の没後、次に百済の王となった聖王の時代に日本に仏教が伝わったとされます(538年説)。武寧王の棺には日本の木が使われており、これは当時の日本と百済の関係が良好だったことを意味しているようです。

宋山里古墳模型館のなかでは、石室の様子、副葬品などの様子が再現されています。古墳を訪れた際には立ち寄ってみましょう。

宋山里古墳群
入場料:1,500ウォン

営業時間:9:00~18:00
公州市公式ページ(日本語)

公州についてより詳しく知りたい方は、百済の古都・公州(コンジュ)の歴史遺産を巡る旅をご覧ください。

百済の古都・公州(コンジュ)の歴史遺産を巡る旅

扶余にある百済の世界遺産

538年には熊津から、泗沘(現・扶余)へと遷都されます。この遷都は計画的に行われたといわれていますが、ここが660年に百済が滅亡するまで、最後の都となります。

●陵山里古墳群(능산리고분군)
扶余の陵山里古墳は、扶余の中心街の東側へ少し離れたところにあります。全部で7号墳まであるのですが、第27代の威徳王が葬られた1号墳の石室には「四神図壁画」が施されています。

石室に壁画があることは、当時に高句麗との文化交流があった証拠だと考えられているようです。


[陵山里古墳]

石室には劣化が懸念されることから、入ることができません。代わりに複製された石室があり、内部の様子をうかがい知ることができます。また古墳の前には、内部の様子を模ったタイルが新たに設置されています。

また古墳の隣にある扶余陵山里寺址から出土した「百済金剛大香炉(백제금강대향로)」には、発掘当時の様子が地面の下で再現されており、現物は国宝指定され、扶余の博物館に展示されています。

陵山里古墳群(능산리고분군)
8:00~17:00
料金:1500ウォン

●扶蘇山城(부서산성)
泗沘(プヨ)に都をおいた時代に築城された扶蘇山城(부서산성、プソサンソン)は、長年の間、王都を守る役割を果たしました。


[扶蘇山城・百花亭付近から白馬江を望む]

この扶蘇山城は、白馬江(錦江)に面した場所にありますが、660年、百済が滅亡する際、百済の女性たちは貞節を守るため、崖から川に飛び降りたとされています。

落花石という岩があり、現在はここに「百花亭」という東屋が立てられています。この下から出発する帆掛け船にも乗ってみましょう。

扶蘇山城(부서산성)
営業時間:8:00~19:00(冬季 09:00~17:00)
料金:2000ウォン
扶余郡公式ページ(韓国語)

■百済の英雄・階伯(ケベク、계백)将軍
百済の将軍として、韓国で最もよく知られているのが、階伯(ケベク)将軍。黄山伐の戦いでは、5万人にも及ぶ新羅・唐の連合軍を相手に5000人の兵力で戦い、4度勝利したのち、戦死したのです。祖国を守るために戦った英雄と認識されています。


[階伯将軍の肖像]

階伯(ケベク)は百済の三忠臣のひとり。階伯のほか、成忠、興首の肖像と位牌は、扶蘇山城にある三忠祠という祠堂に置かれています。

●定林寺址
定林寺(정림사)は百済時代に建設された仏教寺院。約8.33mの高さで当時建立された「定林寺址五層石塔」は現存しており、国宝9号に指定されています


[定林寺跡]

その後高麗時代に改築された定林寺。高麗時代に作られた本尊像、「定林寺址石仏坐像」の形は親しみやすい顔をしているので、ぜひ見ていきましょう。

定林寺址
営業時間:9:00~18:00(冬季17:00)
扶余郡公式ページ(韓国語)

扶余について詳しく知りたい方は、百済最後の都、扶余(プヨ)の歴史遺産を巡る旅をご覧ください。

百済最後の都、歩いて巡る扶余(プヨ)の歴史散策

益山にある百済の世界遺産

世界遺産の登録は全羅北道の益山(익산)にも及びます。この益山という地も、百済のもうひとつの王都だとわかってきています。益山はソウルからKTXで約1時間です。

●弥勒寺址
弥勒寺(미룩사)は、30代王の武王(在位は600~641年)の時代の600年頃に建てられたという寺院。こちらは益山駅・益山バスターミナルから市内バスで約40分。


[弥勒寺西棟、東塔]

弥勒寺の「址」というぐらいですから、建物は残っていません。600年建立と推定される西塔は、21世紀直前まで六層の状態で残されていました。修復のために解体、復元工事がされています。

塔の石はひとつひとつ番号が付けられ、その通りに戻されて積み上げられていきます。しかし建立された当時の形(詳細は不明)には戻ることはなく、解体・修復以前の状態に戻るのだとか。

2013年3月の時点では復元工事がさほど進んでいませんでしたが、2017年現在は工事が完成に近づいています。東塔すでに再建されています。

●ドラマ・「薯童謡(ソドンヨ)」
この弥勒寺は『三国遺事』という歴史書のなかの「薯童説話」には、弥勒寺が武王の時代に建てられたという記録が残っているのですが、そのなかにある「薯童謡」という童謡は、ドラマのタイトルにもなっています。

弥勒寺址
弥勒寺址(韓国語)


[ドラマ・薯童謡(ソドンヨ)]

●王宮里遺跡
王宮里遺跡は弥勒寺址から6キロ離れ、バスで20分ほどのところに位置します。1989年からの発掘調査により、ここに寺院や宮殿などが建てられたことがわかりました。

ここを訪れると石塔がひとつ目立っている以外は、発掘跡となる溝がたくさんあり、残りは築石があるくらい。


[王宮里遺跡にある高麗初期の石塔(世界遺産ではない)]

その石塔とは「王宮里五層石塔」。国宝289号に指定されていますが、百済の世界遺産とは異なり、百済が滅亡後、新羅の時代を経て高麗時代初期に作られたもの。

それ以外は大型寺院などの建造物の址、トイレの址がなどが残されており、そこから当時の生活をうかがい知ることができます。

発掘された遺物は、隣接する王宮里遺跡展示館で展示されているので、必ず立ち寄っていきましょう。

王宮里遺跡展示館
王宮里遺跡展示館(韓国語)

益山(イクサン)の百済世界遺産をめぐる旅~弥勒寺址・王宮里遺跡

世界遺産に登録された百済歴史地区。日本とも関連が深かった百済の遺構からは、その繁栄と滅亡をうかがい知ることができます。世界遺産を巡り、その当時の暮らしの様子を想像しながら、旅を楽しんでみてください。




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トム・ハングルの韓国旅行ひとこと
百済(ペクチェ・くだら)と聞いて思い出すのは「クダラナイ」という言葉の語源。当時、百済が日本に与えたものは大きかったので、「百済のものではない=クダラナイ」という言葉が生まれたという説があります。

一方で、江戸時代には、上方(京や大阪)から下方(地方)へと輸送されるものを「下りもの」と呼んでいたわけですが、「上方から来たものではないもの=下りものではないもの」が「クダラナイ」の語源だったという話もあります。

江戸時代以前から使われたという説もあり、詳細は不明です。どちらが正しいとしても、ほかに語源があるとしても、仏教伝来など百済から伝えられたもののの影響は大きかったといえるのでしょう。



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